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2012年1月16日月曜日

ドトールで悲しいことが、青少年の慟哭の叫びか。


東京 羽村のドトールで、悲しくも不快な痕跡を目にした。喫煙側の全てのテーブルにタバコを押し付けた跡が生々しい。

若いアンチャンがおもしろ半分、自己顕示でやったのだろう。

公共物への損傷行為でもって己の存在感を感じる文化はいただけない。

分析すれば「認定されてる社会的基準」の内側では自分の肯定感を感じられないばかりか逆に駄目人間とばかり評価されてしまう、また評価してしまう評価社会に生きざるをえない現状での一つの慟哭の叫びともいえるだろうが、行為としては承認しがたい。

このような子供達は案外に社会的常識に素直である。が、その常識が自分を排除してしまうので、それへの破壊的反抗をとりがちだ。そして自分たちを根本的に肯定してくれるグループに属し、つかのまの社会的肯定感を回復する。

そういう彼らがしばしば一定の年齢に達すると、反抗していた常識社会の内側へといわば回帰していくことは、あらためて等身大の自分として社会内存在となる自分の承認と再出発ではあろうが、そこには 1つの悲しい諦めを感じることも多い。

何か目標を、道を見出し、あゆみ登る己を見出せれば幸いだ。

世間の一般的評価とは別に、どんな道ゆきでも、道を歩める自分を感じられ
、歩みの道程を感じられることは嬉しく、充実感をえられるものだ。

新たに改めて、彼が何か道を見いだす事を願いたい。

道びとは幸いである。

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