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2011年10月20日木曜日
「朝鮮人の奴隷を使ってたじゃない」:とある喫茶店で
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随想
神奈川県相模原市のとあるドトール。そこには定年退職をしたらしき人々、隠居した商店の元店主らしき人々が日々集い会話を楽しんでいる。
ある日、飛び込んできた言葉「(あのあたりでは)朝鮮人の奴隷を使ってたじゃない」。話の前後はよくわからないが、相模原で生まれ育った人たちの昔話のようだ。
彼らの顔を見ると、ごく普通のおじさんたちであり、別段悪顔をしているわけではない。日本人同士の中では気のよい人々なのだろう。
時代の中で「そう感じ思うに至らされた」ことなのだろうけども、この今でも「朝鮮人の奴隷」という言葉がごく自然に使われ会話が進んでいくことに思想が人を鬼にもするたる思いを新たにした。
彼らとても公の場ではそうは発言しないんだろうなあと思いながら、本音において、人が人を見下し、ついには人間とも見なさず、その思いと生を収奪してきたんだろうなあと、暗澹たる思いを持つ。
具体的な人から離れ、「民族」という多分に仮象性のある枠組みから人が抽象化された上で、しかし、生きた具体的な人が、「その名」において収奪されることは、抽象化され、象徴化された言葉と論理にて評価してしまいがちな人間という生きものの「なくなり切れない原態」といっても過言ではなかろう。
「何かとして”それ”を捉える」ことを離れて認識は不可能であろうが、特定の何かとしえしか捉えられないことに陥る・ないし、それを求めてしまうことは災悪である。
論理の背景に、隠された指向性あり。ある知人との会話。
私:「韓国女優って、なんかきれいで魅力的な人がおおいなあ。」
知人:「たしかにきれいだが、性根が悪い」
韓国人は常にダメな連中であることが要請されるようだ・・・
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